ナンシー関の後継者は、居ない。

今井舞とかいうコラムニストの書いたテレビ批評を時々読むが、その度に10年前に他界したナンシー関の不在の大きさを感じる。同じ毒舌でも、今井の書く文章からは悪意しか伝わらない。バラエティーやドラマをチェックしまくって、アラを探して、自分がタレントに抱いている嫌悪感を吐き出しているような不快感を常に感じるのだ。別に彼女が芸能人に憎しみを抱いているのでは無いだろうけど、彼女の批判的な文章から悪口以外の要素を感じ取った事は無い。同じ事は文春にコラムを書いている麻生なんとかという人にも感じる。
ナンシー関の文章には有名人のそこが気になったのかとか、そんな場面から文章を膨らませる事が出来るのかと言った妙味があった。私が芸能人について書く時に一番こういった文章を書きたいと思ったのがナンシーのコラムだ、しかし例えナンシー的な文体や思考を身に付けたとしても、死んだ彼女にはもちろん増して生きてたら永久に追い付く事は無い。なぜなら彼女の物の見方は努力して掴んだ物では無く、始めから「私の目にはこう映る」物だったからだ。凡人に取って唯一の救いは、彼女の消しゴム版画も最初の頃はヘタだったのと、コラムもまだ妙味やテクニックは無かった事だ。ナンシーのコラムで特に好きなのは、宅間伸のバラエティー番組でのつまらなさ(リアクションの無さ)を取り上げた回だ。締め方もとても上手い。